小学校の遠足で宇多姫山に登ったことを思い出します。 標高552mですが南に太平洋が見えた。山育ちの私はこれが海というものを見た最初でした。今では植林されて当時の眺望は望めません。
 明治の頃は「縁日には参詣者が多く、四、五軒の菓子屋も店を出した」と香北町史(松本実編集1968年発行)に書かれていますが、 当時の賑わいを偲ぶものは、今では大きな手水鉢のほかには何も残っていません。

 今は近くまで車で行けますので歩くのは5分もあれば十分です。 縁日が賑わっていた頃は参詣者も開店する者も急な山道を歩いて登ったのです。 昭和20年ごろでも標高差500m近くある小学校へ歩いて通学していました。 しかし、人家は今はありません。その小学校もずっと前に廃校になっています。

 「祠前の大手水鉢は氏子の寄進で市川の向林から木遣り節に合せて引き上げた」と香北町史で紹介されています。 今の祠には不釣合いな立派なものです。
 「五、白 両村」が明治17年に奉献したことが彫られていますが、当時は「五百蔵村」と「白川村」とがあったのでしょう。 私が子供頃にはすでに統合されて、部落名として残っていました。

五百蔵の宇多姫山にある。後醍醐天皇の御弟一宮式部親王の御妃加羅宇多姫をまつる。 明治十三年に槙山村高尾の人近藤寿平が岡内文右衛門の肝入いり阿波より勧請したもので、 安産開運の霊験が高く、遠く高知方面までその名を知られた。 参詣者が多いので、三十畳敷程の通夜堂の建てられていた。 祠前の大手水鉢は氏子の寄進で市川の向林から木遣り節に合せて引き上げたという。 標高五五二米、西南香長の平野を一望の中におさめ、快晴の日にははるか足摺の岬をも望むことの出来る眺望絶景の地で、 旧三月五日の縁日には参詣者が多く、重箱を開いて眺望をほしいままにし乍ら一日を送った。 四、五軒の菓子屋も店を出し、子供にも楽しい祭りあったが明治の末頃より遊山は次第にすたれ現在では訪れる人も極めて稀になった。 祠前にある直径二十米程の漏斗状の大穴は、昔猪を捕らえるために設けたおとし穴であるとか、穴の底は銚子の口へ通じているとか言い伝えられているが、 附近に石灰岩が多いので多分石灰洞であろう。 香北町史(松本実編集1968年発行)より

国土地理院発行2.5万分の1地形図「美良布」より。
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