阿弥陀堂 五百蔵旧報恩寺境内にある。芳勲長老により堂が建立せられ、歴代領主山田氏の尊宗があつかった。 寛永六年には山田修理助によって再興せられた。この時は萱葺きであったが、元禄七年に枌葺とし、 享保四年に再興、天明二年に再建、寛政二年再復、天保十三年新築と数度の修理が行われいるのをみれば、 人々の尊敬のあつかったことも知られる。 その後約五十年を経て、明治二十四年には(中略)大修理を加え現在に至っている。 本尊阿弥陀仏は金箔塗の坐像で、天明二年の棟札には「行基の作で千年余りの年月を経るうちに尊像が破壊し、 檀家の者が力を協せて浄財を集め、天明元年京都で補修を加え、翌二年二月十三日に安座開眼供養をして十七日間扉を開き衆人に参拝させた」と しるされている。 香北町史(松本実編集1968年発行)より
金蔵山報恩寺 禅宗。本尊は聖観音で金箔塗の坐像である。もとは旧暁霞小学校の位置にあった。 棟札、過去帳等古い記録は一切なく、創立の時代や盛衰等は全く不明であるが、 ただ境内阿弥陀堂に現存する棟札によってわづかに往時をしのぶことが出来るのみである。 即ち元禄七年の棟札によれば、山田予岳寺五代寿益大和尚の弟子芳勲長老の取立てもので、 寿益大和尚は長岡郡豊岡城兼序寺を開山した人であり、 「兼序は国親の先考なり。瑞応寺は国親の功徳院なり」とある記事より推して、 芳勲は天文年間に瑞応寺の末寺としてこの寺を取立てたものであろう。
(中略)
弘化四年の調べによると「金蔵山報恩寺僧侶二人」とあるから、この頃は相当栄えていたものと思われる。 明治四年に廃寺となり、長岡郡国府村永源寺の出張所として寺務を取扱った。 当時は東西二十間、南北十間、面積六畝二十歩の敷地をもっていたから、 かなりの建物が並んでいたであろうが、建物は東より切り売りとし、西方の一端のみを残して本尊を安置し、 所有の田畑は五百蔵・白川の檀家に配分した。 このように混雑したので、宝物古記、過去帳、仏具その他散逸し、その間に僧侶も数人交代があったが、 明治四十年より大正二年まで宮本得道が住職として熱心に仏具等を新調し、再興に力をつくした。
 大正二年より、大陽元信が寺務取扱いとなったが、同4年三月本寺及び檀家総代等にも無沙汰で逃亡したので、宮本得道の新調した仏具等は不明となった。 同七年伊藤孝真が来往し、信徒の協力を得て法衣を新調し、又六年には釈迦牟尼如来降誕像を京都より買い求めて、 四月八日に入仏式を行い、爾来毎年四月八日の潅仏会が行われるようになった。 大正十四年には伊藤哲禅が来往したが、この頃より五百蔵部落の有志等は、仏教婦人会を組織し、法衣その他の調度品を次々と新調した。 哲禅についで昭和五年には西森宣教が来往、宣教についで昭和十七年まで井川元信が在住した。 この間昭和十年には暁霞小学校々舎増築のため現在の地に移転し、同十五年十月には曹洞宗報恩寺として、永源寺の支配を離れることとなった。 昭和十七年七月五日岡村憲一をむかえ現在に至っている。信徒は旧暁霞全般にわたり一五〇名位である。 香北町史(松本実編集1968年発行)より

国土地理院発行2.5万分の1地形図「美良布」より。
書き込みの位置は正確でない場合があります。

 阿弥陀堂は報恩寺の境内にあります。


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