2009/12/31 撮影



 私は最近まで、若一王子宮を「釈迦堂」であると思い込んできました。 明治政府の「神仏混合すべからず」いう神仏分離令によって、同じ境内にあったお宮とお堂とは引き離され、 お堂は山の手に追いやられた。そして釈迦堂という地名のみ残ったというわけです。
 なにも当時の人々が釈迦堂を嫌ったのではありません。ともに心尽してお祭していたはずです。 いまでも旧暦4月9日には地元の人たちがここでお祭しているそうです。怖いのはお上である。
 なにぶんにも山の手入れは難しい世相なので、ここは薄暗らく、淋しい場所となっています。お釈迦様をもとの釈迦堂屋敷にお帰しすることは出来ないものでしょうか。

お大師様と子安地蔵

 釈迦堂から10メートルも離れていない所に、お大師様と子安地蔵があります。 この二つも釈迦堂とともにここに移されたものでしょうか。 それとも釈迦堂が移築された明治4年以前からあったものでしょうか。
 いずれにせよ、お堂が三つ固まっていることで淋しさを和らげているように感じられました。

国土地理院発行2.5万分の1地形図「美良布」より。
書き込みの位置は正確でない場合があります。

緯経度による検索

 釈迦堂から10メートルも離れていない所に、お大師様と子安地蔵があります。 この二つも釈迦堂とともにここに移されたものでしょうか。 それとも釈迦堂が移築された明治4年以前からあったものでしょうか。
 いずれにせよ、お堂が三つ固まっていることで淋しさを和らげているように感じられました。

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